ピケティ「21世紀の資本」

話題の本をさっそく買って読んでみました。

「不平等」に関して革命的な知見を与えてくれる本でした。

ノーベル経済学賞受賞者であるクズネッツが1955年に発表した論文では、成長と競争、技術進歩のおかげで階級間の格差は縮まるとされていました。
この結論は、1913年から1948年の間の経済データを用いて得られたものでした。

ところが、ピケティが分析対象を20か国、3世紀に渡るデータに広げてみると、得られた結論はほとんど180度反対のものだったのです。
ピケティらが10年かけて収集した膨大な経済データから得られた結論は次のとおりのものです。

r>g
r:資本に対する収益の年平均値
g:経済成長率

この不等式が成り立つ時、資本主義は、民主主義社会がその基盤を置く業績主義的価値観を根元から掘り崩すような、恣意的で擁護しえない不平等を自動的に生み出すとピケティは言います。
成長率の低い経済では、過去において蓄積された富が現在の労働から得られる所得よりも急速に増大し、富裕層は労せずしてより豊かになる一方で、資産を有しない階級はいくら働いても富を獲得することができないことになるからです。

そして、ショッキングなことに、近代史の大半においては、rは4パーセントから5パーセント程度、gは1パーセントから2パーセントとなっており、まさに上記不等式が成立していると言うのです。

http://piketty.pse.ens.fr/files/capital21c/en/pdf/F10.9.pdf
出典:http://piketty.pse.ens.fr/files/capital21c/en/pdf/F10.9.pdf

本著作が各国においてベストセラーになったことにより、再び「不平等」が言論界のメインストリームに戻ってくるでしょうし、「不平等」に関わる言説は、この本の内容を肯定するにしろ否定するにしろ、その存在を前提としたものとならざるを得ないでしょう。

21世紀の資本21世紀の資本
(2014/12/09)
トマ・ピケティ

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現代思想 2015年1月臨時増刊号◎ピケティ 『21世紀の資本』を読む -格差と貧困の新理論-現代思想 2015年1月臨時増刊号◎ピケティ 『21世紀の資本』を読む -格差と貧困の新理論-
(2014/12/12)
トマ・ピケティ、ポール・クルーグマン 他

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専門家の判断 vs. 一般市民の判断

 検察官が懲役10年を求刑したところ、裁判員を含む裁判体が懲役15年を言い渡したという裁判員裁判に関する最高裁判決の話題です。

平成25(あ)689 傷害致死被告事件 平成26年07月24日 最高裁判所第一小法廷 判決

 ところで、刑罰は公共の福祉(憲法12条)の名の下人権を制限するものであり、科刑は公共の福祉と人権のバランスに係る問題です。量刑の決定もまた人権問題ということになりますから、民衆の多数決に基づいて判断するのではなく、専門家(裁判官)によって構成される専門機関(裁判所)が理性に基づいて判断すべき事項と考えられてきました。
 そして、量刑判断が理性に基づく判断と言えるためには、裁判例の積み重ねによって生み出された量刑傾向を無視することは許されません。理性に基づく判断と言えるためには、量刑要素が客観的に適切に評価され、結果の公平性を損なわないものでなければならないところ、量刑傾向を無視して、結果の公平性を実現することはできませんし、量刑傾向を無視した判断は、量刑要素を客観的に適切に評価したとはみなされないからです。

 このように、従来は、量刑に関しては、専門家が量刑傾向を考量しつつ判断するのが当然と考えられてきました。しかし、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」により、一般市民を刑事訴訟手続きに関与させる裁判員制度が導入されました。同法1条は、「国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」としています。そもそも刑法の根底には人間の感情が存在すると言われています(マーサ・ヌスバウム「感情と法」参照。)。ですから、理性のみで量刑を適正に判断することは原理的に不可能であり、健全な感情、健全な常識もまた必要です。健全な感情、健全な常識から遊離した判断は国民の支持を得られないでしょう。そして、国民の支持を得られない判断をもたらす司法制度はその存在意義を問われることになってしまいます。そこで、健全な感情、健全な常識の担い手として、一般市民を刑事訴訟手続きに関与させること自体は許されると考えられます。

 一般市民が参加した裁判体の判断は、専門家のみによって構成される裁判体の判断とは自ずと異なるものになると考えられます。この点、最高裁判所は次のとおり述べています。

「裁判員制度は、刑事裁判に国民の視点を入れるために導入された。したがって、量刑に関しても、裁判員裁判導入前の先例の集積結果に相応の変容を与えることがあり得ることは当然に想定されていたということができる。その意味では、裁判員裁判において、それが導入される前の量刑傾向を厳密に調査・分析することは求められていないし、ましてや、これに従うことまで求められているわけではない。」

 ただ、繰り返しますが、量刑の問題は人権問題であり、理性に基づいて判断すべき事項であって、量刑傾向を無視することは許されません。そこで、最高裁判所は次のとおり述べています。

「しかし、裁判員裁判といえども、他の裁判の結果との公平性が保持された適正なものでなければならないことはいうまでもなく、評議に当たっては、これまでのおおまかな量刑の傾向を裁判体の共通認識とした上で、これを出発点として当該事案にふさわしい評議を深めていくことが求められているというべきである。」
「これまでの傾向を変容させる意図を持って量刑を行うことも、裁判員裁判の役割として直ちに否定されるものではない。しかし、そうした量刑判断が公平性の観点からも是認できるものであるためには、従来の量刑の傾向を前提とすべきではない事情の存在について、裁判体の判断が具体的、説得的に判示されるべきである。」

 そして、最高裁判所は、次のとおり、結論付けています。

「これまでの量刑の傾向から踏み出し、公益の代表者である検察官の懲役10年という求刑を大幅に超える懲役15年という量刑をすることについて、具体的、説得的な根拠が示されているとはいい難い。その結果、本件第1審は、甚だしく不当な量刑判断に至ったものというほかない。」

 これだけでも裁判員裁判に対して、かなり否定的な印象を受けますが、白木勇裁判官の補足意見は、さらに踏み込んで次のとおり述べています。

「量刑は裁判体の健全な裁量によって決せられるものであるが、裁判体の直観によって決めればよいのではなく、客観的な合理性を有するものでなければならない。このことは、裁判員裁判であろうとなかろうと変わるところはない。裁判員裁判を担当する裁判官としては、量刑に関する判例や文献等を参考にしながら、量刑評議の在り方について日頃から研究し、考えを深めておく必要があろう。評議に臨んでは、個別の事案に則して判断に必要な事項を裁判員にていねいに説明し、その理解を得て量刑評議を進めていく必要がある。(中略)量刑判断の客観的合理性を確保するため、裁判官としては、評議において、当該事案の法定刑をベースにした上、参考となるおおまかな量刑の傾向を紹介し、裁判体全員の共通の認識とした上で評議を進めるべきであり、併せて、裁判員に対し、同種事案においてどのような要素を考慮して量刑判断が行われてきたか、あるいは、そうした量刑の傾向がなぜ、どのような意味で出発点となるべきなのかといった事情を適切に説明する必要がある。」

 つまるところ、裁判官主導で量刑評議を進めるべきであり、専門家である裁判官がするのと同程度に客観的合理性のある量刑判断をなすべきであって、素人的な直観的判断は許されないということなのでしょう。しかし、法律家としてのトレーニングを積んでいない一般市民の判断は直観的判断になりがちですし、一般市民が健全な感情、健全な常識の担い手として期待されているのであれば、ある程度直観的な判断が斟酌されるべきはずです。一般市民の直観的判断を専門家である裁判官が封じ込めるべきなのだとすれば、一般市民を刑事訴訟手続に関与させる必要がそもそもあったのかという疑問が湧いてきます。

 裁判員制度は、導入に直接関わった人たちが引退した後、廃止される運命にあるのかもしれません。

ネット上の匿名性

復興庁の幹部職員が、twitterにおいて暴言を吐いていたとして、
被災者支援の担当を外されたと報道されています。

実名ではなくペンネームを用いて投稿していたようですが、自分の足跡を
日常的に残すような投稿をしておいて、身元がバレないと思っていた
(そう思ってなければ、あそこまで書けませんよね?)ことに驚きました。

誰でも情報を閲覧することができ、記録がいつまでも残り、情報を統合することが
容易なネット社会では、真の意味での匿名性を確保することはかなり難しいことです。
ペンネームを用いる場合であっても、実名を用いた場合と同様の心構えをもって
投稿しないと、こういうことになるという教訓になる事例ですね。

集合知

10月31日の経済教室で、西垣通教授が、集合知について
興味深いことを書いています。

私も以前読んだことのある「「みんなの意見」は案外正しい」で
紹介されている通り、専門家の意見よりも、素人の多数意見の方が
正しいことがしばしばあります。
たとえば、「クイズ・ミリオネア」の例では、専門家に聞くよりも、
視聴者代表集団のアンケート結果を参考にした方が正答する確率が
高いと言われています。

西垣教授がその理由を説明してくれています。
以下、引用します。


「いまスタジオに100人の視聴者代表がいて、①4択問題の正解を
知っている者が10人②2つの選択肢に絞り込める者が25人③3つの
選択肢に絞り込める者が25人④全然見当がつかない者が40人の4グループに
分けられるとしよう。このとき、アンケートをとると、正解を選ぶ者は
平均で約41人と計算できる。一方誤った3選択肢については、
選ぶものはいずれも平均で20人弱にすぎないので、集団平均としては
ほぼ間違いなく正解が選ばれる。つまり正解が分かる者はたった1割、
全然分からない者が4割に及ぶ素人集団でも、「集合知」としては
見事に正解を答えてしまうのだ。
これはいわゆるランダム選択の仮定に基づいている。例えば、2つの
選択肢に絞り込んだ者25人の正答率は50%であり、平均として
12.5人が正解を選ぶことになる。」

西垣教授の主張の主眼は、このような集合知にもさまざまな限界があるため、
ネット集合知と直接民主主義を短絡させるべきではなく、ネット集合知を
有効なものにしていくために、精密が議論が必要とされているということにあります。

しかし、情報学の素人としては、まずは集団が見せる上記のような能力が
どのように発現するのかに興味がわきました。

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)
(2009/11/25)
ジェームズ・スロウィッキー

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裁判所HPにアクセスできません

最新の最高裁判決を見るために裁判所HPにアクセスしようとしたら
できなくなっています。
ネットで検索したところ、14日夜にハッキング被害があったようなので、
またということでしょうか。
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