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専門家の判断 vs. 一般市民の判断

 検察官が懲役10年を求刑したところ、裁判員を含む裁判体が懲役15年を言い渡したという裁判員裁判に関する最高裁判決の話題です。

平成25(あ)689 傷害致死被告事件 平成26年07月24日 最高裁判所第一小法廷 判決

 ところで、刑罰は公共の福祉(憲法12条)の名の下人権を制限するものであり、科刑は公共の福祉と人権のバランスに係る問題です。量刑の決定もまた人権問題ということになりますから、民衆の多数決に基づいて判断するのではなく、専門家(裁判官)によって構成される専門機関(裁判所)が理性に基づいて判断すべき事項と考えられてきました。
 そして、量刑判断が理性に基づく判断と言えるためには、裁判例の積み重ねによって生み出された量刑傾向を無視することは許されません。理性に基づく判断と言えるためには、量刑要素が客観的に適切に評価され、結果の公平性を損なわないものでなければならないところ、量刑傾向を無視して、結果の公平性を実現することはできませんし、量刑傾向を無視した判断は、量刑要素を客観的に適切に評価したとはみなされないからです。

 このように、従来は、量刑に関しては、専門家が量刑傾向を考量しつつ判断するのが当然と考えられてきました。しかし、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」により、一般市民を刑事訴訟手続きに関与させる裁判員制度が導入されました。同法1条は、「国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」としています。そもそも刑法の根底には人間の感情が存在すると言われています(マーサ・ヌスバウム「感情と法」参照。)。ですから、理性のみで量刑を適正に判断することは原理的に不可能であり、健全な感情、健全な常識もまた必要です。健全な感情、健全な常識から遊離した判断は国民の支持を得られないでしょう。そして、国民の支持を得られない判断をもたらす司法制度はその存在意義を問われることになってしまいます。そこで、健全な感情、健全な常識の担い手として、一般市民を刑事訴訟手続きに関与させること自体は許されると考えられます。

 一般市民が参加した裁判体の判断は、専門家のみによって構成される裁判体の判断とは自ずと異なるものになると考えられます。この点、最高裁判所は次のとおり述べています。

「裁判員制度は、刑事裁判に国民の視点を入れるために導入された。したがって、量刑に関しても、裁判員裁判導入前の先例の集積結果に相応の変容を与えることがあり得ることは当然に想定されていたということができる。その意味では、裁判員裁判において、それが導入される前の量刑傾向を厳密に調査・分析することは求められていないし、ましてや、これに従うことまで求められているわけではない。」

 ただ、繰り返しますが、量刑の問題は人権問題であり、理性に基づいて判断すべき事項であって、量刑傾向を無視することは許されません。そこで、最高裁判所は次のとおり述べています。

「しかし、裁判員裁判といえども、他の裁判の結果との公平性が保持された適正なものでなければならないことはいうまでもなく、評議に当たっては、これまでのおおまかな量刑の傾向を裁判体の共通認識とした上で、これを出発点として当該事案にふさわしい評議を深めていくことが求められているというべきである。」
「これまでの傾向を変容させる意図を持って量刑を行うことも、裁判員裁判の役割として直ちに否定されるものではない。しかし、そうした量刑判断が公平性の観点からも是認できるものであるためには、従来の量刑の傾向を前提とすべきではない事情の存在について、裁判体の判断が具体的、説得的に判示されるべきである。」

 そして、最高裁判所は、次のとおり、結論付けています。

「これまでの量刑の傾向から踏み出し、公益の代表者である検察官の懲役10年という求刑を大幅に超える懲役15年という量刑をすることについて、具体的、説得的な根拠が示されているとはいい難い。その結果、本件第1審は、甚だしく不当な量刑判断に至ったものというほかない。」

 これだけでも裁判員裁判に対して、かなり否定的な印象を受けますが、白木勇裁判官の補足意見は、さらに踏み込んで次のとおり述べています。

「量刑は裁判体の健全な裁量によって決せられるものであるが、裁判体の直観によって決めればよいのではなく、客観的な合理性を有するものでなければならない。このことは、裁判員裁判であろうとなかろうと変わるところはない。裁判員裁判を担当する裁判官としては、量刑に関する判例や文献等を参考にしながら、量刑評議の在り方について日頃から研究し、考えを深めておく必要があろう。評議に臨んでは、個別の事案に則して判断に必要な事項を裁判員にていねいに説明し、その理解を得て量刑評議を進めていく必要がある。(中略)量刑判断の客観的合理性を確保するため、裁判官としては、評議において、当該事案の法定刑をベースにした上、参考となるおおまかな量刑の傾向を紹介し、裁判体全員の共通の認識とした上で評議を進めるべきであり、併せて、裁判員に対し、同種事案においてどのような要素を考慮して量刑判断が行われてきたか、あるいは、そうした量刑の傾向がなぜ、どのような意味で出発点となるべきなのかといった事情を適切に説明する必要がある。」

 つまるところ、裁判官主導で量刑評議を進めるべきであり、専門家である裁判官がするのと同程度に客観的合理性のある量刑判断をなすべきであって、素人的な直観的判断は許されないということなのでしょう。しかし、法律家としてのトレーニングを積んでいない一般市民の判断は直観的判断になりがちですし、一般市民が健全な感情、健全な常識の担い手として期待されているのであれば、ある程度直観的な判断が斟酌されるべきはずです。一般市民の直観的判断を専門家である裁判官が封じ込めるべきなのだとすれば、一般市民を刑事訴訟手続に関与させる必要がそもそもあったのかという疑問が湧いてきます。

 裁判員制度は、導入に直接関わった人たちが引退した後、廃止される運命にあるのかもしれません。
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